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一献で二度楽しめる盃
日本では縄文時代から酒器が作られていたと考えられています。
いつの世も人々は酒にたいする思いは熱く、多種多様な酒器が制作されてきました。
小さな盃に伴って瓢箪や松茸、法螺貝、蜜柑、烏瓜、茄子、胡瓜形の持ち手がほどこされています。実はこの持ち手には嬉しいからくりが隠されています。
持ち手の部分は中が空洞になっていて、内側で盃とつながっており、
これがいわばタンクのような役目を果たし、お酒を貯えることができるのです。
盃の酒を飲み干すと持ち手のタンク部分から、酒が流れ出てきます。
浅く小さな盃ですから「ちょっと、少ないな‥‥」と思いきや、
思いがけず、二杯分以上のお酒が楽しめるという趣向です。
江戸時代後期、膳所城下(滋賀県大津市)で焼成された、梅林焼です。
小田原伊兵衛が開窯し、一代で廃釜になりましたが、詳しくは分りません 
梅林焼として現代に伝世しています。他にも鮑型鉢や丸茄子型徳利、
松茸型の皿、貝尽くしの珍味鉢などがしられています。
【2009/05/14 06:30】 | お茶事 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
金平糖
金平糖は、1546年ポルトガルからもたらされた異国の品です。
当時はとても珍しく、美しい為ひときわ人々の目を引きました。
織田信長も宣教師から贈られたとされています。製法は一切秘密でした。

日本で金平糖が作られるようになったのは、レシピがなく20年以上かかったと
いわれています。
京都の「緑寿庵清水」さんは天然素材を加えてと、砂糖が結晶しないことをくつがえし、
また、豊富な色彩と風味の逸品が出来るのは、日本で一軒しかない金平糖の専門店です。
日本では古来より皇室での引き出物は金平糖が使用されます。
人が二週間以上かけて根気よく愛情を注ぎ作る。
家庭を築きあげていく、お二人の姿にもにているところからだと言われています

金平糖が出来るまで
  イラ粉
まず金平糖作りにかかせないのが核です。イラ粉という餅米を0.5ミリに砕き使用します。
これを回転している大きな釜にいれ、グラニュー糖を溶かした密を少しづつ振りかけては乾燥します。
この工程を繰り返します。
  約3日目
除々にイガが出来始めます。
  約8日目
ほぼ均一にイガが出揃います。
  約14日
砂糖の金平糖の完成となり、天然素材の金平糖をつくるには、16日~20日ほどかかります。
【2009/05/06 23:11】 | 雑記 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
花咲かじいさんの話
かたい話ばかりが続き、すこし駄洒落なんか如何でしょうか。

花咲かじいさんの話

昔あるところにおじいさんと、犬のポチがいました。
おじいさんは木に登り、灰を撒いたところ、枯れ木に花が咲きました。
そしたらポチが木の下で「ここ掘れワンワン」と鳴くので掘ってみると
大判小判がザックザクと出てきました。
別の木も灰を撒いたら花が咲き、ポチが「ここ掘れワンワン」と鳴き、
おじいさんは「じゃあポチポチ掘ろうか」と言ながら掘ると
大判小判がサクザク出て3本、4本同じことをしていたら夕暮れになりました。
おじいさんは欲が出て「ポチ、もう一本探せ」、
「ここ掘れ」とじいさんに教えましたら
大判小判がサクザック。おじいさんは大喜びです。
ポチは疲れました。もう十分に金銀財宝が手にいれたし、
おじいさん帰ろうよ。といっても「もう一本だけ」て言って聞きません。
「おじいさん、帰ろうよ」、「いや、帰さん。もう一本だけ」。押し問答になり、
ついにポチは切れてしまいました。
振り向きざまに「離さんか! じいさん」 ・・・・・・・・・・・ 柳家花緑さんの話
【2009/05/01 16:40】 | 雑記 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
奈良 西大寺大茶盛
南都七大寺の一つで、称徳天皇の勅願により、天平神護元年(765年)創建されました。
叡尊という人はとても学問にも秀でて、後深草、亀山、後宇多、
伏見の諸天皇より信頼され、律法の振興、廃寺の再建。
殺生の禁断、囚人の改心、救貧、施療、その他公益事業、
社会教化に大変な足跡をしるした人です。

大茶盛は、叡尊が延応元年(1239年)正月、
真言密教の秘法に菩薩流の歳首御修法を行って、
天皇安泰、万民豊楽を祈願し、16日の結願には、
八幡宮に献茶し、その時一般の方たちにもお茶を差し上げたのに始まります。
驚嘆に値する器具の大きかったのを使用したことに由来します。
爾来700余年、毎年4月15、16日、方丈の上段に八幡宮をお祭りし、
假りの山をつくり、松の枝に綿をちぎり雪景になぞらえ、
口径一尺一寸の大茶碗にお茶を点てお客様に斉しく飲んで、
一つの茶碗の味は一味の妙境を賞味するという趣向は、他に類を見ない茶事です。

【2009/04/22 11:44】 | お茶事 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
十牛図 その3
 六、騎牛帰家
牛は人の心を知り、人も牛の心が解りました。
これが人牛一如の姿というものです。手綱を放し牛に乗って、
笛を吹き その音ものどかに我が家に帰ります。

修行のかいがあって、我慾が消滅し、妄想は払拭(ふっしょく)され、
悟りが開かれました。これからは、悟りの境地にあって、
さらに日々さゆまぬ修行に励まねばなりません。

 七、忘牛存牛
かつての荒牛がよく馴れて自分の意に従うようになりました。
牛の事ばかり寝ても覚めても、気を煩わせていました。
しかしそのうちに、牛の事を忘れる日々がやってきました。
 
悟った日々で天下太平です、しかし悟ったという意識が邪魔になります。
悟りの臭みを拭き払う事に又、一苦労しなければならず、
更に修行を積まなければなりません。

 八、人牛倶忘
牛の事を忘れ、牛と共に自分も忘れる日が、来なければなりません。
その日が来てこそ人牛一如の姿に成り得て、牛と共に楽しい日々が訪れます。

悟ることは得難いことですが、更に悟りを超越して、
悟るも悟らないも同じ境地にまで至らなければなりません。
千眼も窺(うかが)い難し、一円相(丸の中には何も無い状態)がこれを象徴しています。

 九、坂本還源
牛は手元にあり、その牛も忘れ、牛を持つ自分も忘れ、
牛を探す前の自分に戻りますが、その頃の自分とは確かに違い、
境地は一段高くなっています。

悟った上で悟りの意識を払拭すれば、悟らない前と同じです。
しかし、見るもの全てに仏を感じ、大自然を肯定する境地に成り得ます。
柳は緑、花は紅(くれない)といった境地にでしょうか。

 十、入鄽(にんてん)垂手
一段高くなった境地こそ天下太平です。家に安穏としておれません。
町に出てこの喜びを人に分かち合いたいからです。
牛も知らず知らずのまに、影のように従ってきます。  

悟りの大境地に立てば、入鄽(にんてん)とは人々と交わる、
つまり俗界に入って、人を救わなければなりません。
これが真に悟りを開いた者の務めであります。
そしてこれが、最高最上の大理想です。
【2009/04/08 12:02】 | 雑記 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
十牛図 その2
 一、尋牛(じんぎゅう)
牛を探しに、手綱を持って、覚悟のうえで山深く分け入り、
求める牛は容易に見つかりません 。
 
仏性は人の胸の内深くにあり、理屈で解っていても、
欲にからんだ人間には容易につかめません。
その仏性を求めて修行の旅に出ます。

 
  二、見跡(けんせき)
苦労の甲斐あって、牛の足跡を見つけます。
しかしそれは長く続かず途中切れで又、苦しい旅が続きます
でも、近くにいるはずです。
 
経典や史伝を読み、先哲の言葉や行いを探っている中に
「これが仏性と云うものか」と図らずも気づく、
胸の奥深くにある仏性に、気づきますが又、昏迷の自分にかえります。

  三、見牛(けんぎゅう)
木陰に待望の牛を見つけます。
静かに前方に回って慎重に確かめますと、確かに牛です。

心の昏迷は我慾から起こると知りながら、
それを容易に捨てれないものですが、
しかしやっと理屈の上での仏性を確かに胸の中に見つけ得ます。
この仏性を見失ってはいけません。

  四、得牛(とくぎゅう)
荒い牛の鼻に手綱をかけることは容易でありません、
でもかけねば逃げられます。ようやく手綱をかけ
ても、牛はなかなか思うようになりません。

理屈の上では、仏性は確かにつかみましたが、
真の仏性をつかめない。実験、実修により、胸の中なる
仏性を自分のものとして、つかみとらなくてはなりません。

  五、牧牛(ぼくぎゅう)
捕まえた牛は、手綱が無くても、自分に従う牛になるように、
馴らす事に専念し、人牛が一体の姿になるまで努力しなければなりません。
 
決意して我慾に打ち勝ったように思えても、
妄想は簡単には払えません。日常生活の中で、妄想を払う
事に実験、実修せねばなりません。
【2009/03/12 19:30】 | 雑記 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
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